はじめに
ここでとりあげる「フッ化物応用」とは、齲蝕(むし歯)の予防のためのフッ化物応用のことである。齲蝕は人類の疾病の中でも長い歴史を持っているが、その予防方法が確立されたのは飲料水中の成分としてのフッ化物が発見されて以来のことである。
「齲蝕予防が確立された」と表現したが、齲蝕のような生活習慣に深くかかわる疾病では一つの予防方法だけで完璧であるわけがない。もともと疾病予防方法で100%の予防は存在しないようである。しかし、人々は予防という語感から、100%を期待する。 たとえば、かって世界的に恐れられた天然痘ウイルスの予防でも、真の流行地では70%程度らいしと言われてきた。
齲蝕の発生機序は、米国の国立保健研究所(NIH)のKeyes, R.H.,Fitzgerald, R.J. らの報告で実証されたように、口腔細菌叢の一つである Streptococcus mutans 菌による感染に始まることは事実であり、その後の細菌疫学研究によっても一層明らかにされてきていることではあるが、他の感染症に比べて生体の防御機構によってある程度抑制されるものであるので、世界保健機関(WHO)では非感染症部門(non-communicable diseases)に位置づけられている。
齲蝕の成因としては、確かに砂糖成分としてのショ糖(sucrose)が、ミュ−タンス菌に利用されて口腔内で広がっていくので、「砂糖とむし歯」はこれまでの齲蝕の疫学的研究ではかなり明確なエビデンスを示していた。しかしながら、1980年代頃から、どうも「砂糖の消費量とむし歯発生」では説明のつかない報告も散見されるようになってきたようである。ここで、感染力がそれほど強くない細菌による疾病発病の疫学研究で重要なことは、環境因子のその強さの背景である。砂糖の消費量についての国家的な統計資料を指標にして、その数量的変化とそれに対応させる集団にみられる齲蝕発生の数量的な広がりには、その疾患が有する発病の力との関係が存在するということである。
いま仮に、戦時下のような砂糖の消費量が極端に低い時には、もちろん齲蝕発病も低いであろう。しかしならが、現在のような世界的な市場の関係で、多くの国において砂糖の消費量がある程度上昇していて、しかも甘味料が砂糖(ショ糖)のみに依存していない現状と、さらに何らかの齲蝕予防としてのフッ化物応用が進行している状況では、疫学的にみて先ほどの環境因子の背景が複雑過ぎるのである。それは複雑というよりは、錯綜している状況であり、統計学的には交絡因子によるバイアスが大きいということである。それを無視して、「砂糖の消費量とむし歯発生には関係がみられない」と結論づけている歯科研究の短絡思考の者や歯科医師が後を絶たない状況にある。
生命科学(life science)は、1970年代頃から科学の世界で盛んに標榜されてくるようになってきたように思う。永いこと、科学は自然科学、人文科学、社会科学に大別されていたが、20世紀にはそこへ「生命科学」が境界を超えて入ってきた。科学の真髄である “veritus(真なるもの)”の追求に補完が必要になってきた。自然科学だけでは、核兵器の産出まで逸脱し、そこで生命倫理が科学に位置づけなければならないような切実さも出現してきたのである。
著者連絡先:〒261-850 2千葉市美浜区真砂1-2-2 東京歯科大学名誉教授 高江洲義矩
TEL:043-270-3712 Fax: 043-270-3659
1.生命科学の意義
「生命科学」または外来語としての「ライフ・サイエンス」の用語も定着しているようであるが、医学史家による詮索は別として、1960年代前後から台頭してきたように思われる。 とくに、ワトソンとクリックの「DNAの二重ラセン構造」の発見と 同じ頃注目されてきた E.Coli (大腸菌)を利用したバイオ・テクノロジ−が嚆矢となったかも知れない。
したがって、生命科学というと、分子生物学領域の用語であって、社会科学や人文科学では殆ど使われていないので、その用語の使用には分子生物学領域の研究者からやや奇異に思われたものである。さらに、生命科学と医学の相違ということも、論議の対象となるものである。確かに、広い意味での医学は生命科学そのものである。
医学というのは、医療を受ける者と医療を提供する者との間に発生する人間関係の学問であり、医学研究は最大にして最高の医療技術と医療サ−ビス、あるいは医療ケアを目的としている。最大にして最高の医療技術を一言で表現しているのが、しばしば使われる“state of the art”である。
20世紀後半からは、この医学や医療のあり方にも種々の疑問が出てくるようになってきた。人の命を救う医学・医療、人をより健康にするための医学・医療は、技術であるだけに、どうしても主体が医学側または医療側に集中しがちである。医療を受ける患者やクライエントのことは、理解しているようでいて、現実には忘れられることが発生してしまうことが、しばしば指摘されてきている。
さらに、もう一つ重要なことは、医学的な研究に“科学的”という思い込みを入れて追求していることが、
生命科学からみて必ずしも妥当ではないことがある。その極端な例の一つが、科学的という名の下に行われる医学統計処理の方法である。統計の対象となるサンプル(資料,試料)の妥当性と、統計処理の方法の妥当性と、その結果の吟味と解釈の妥当性が意外にも第三者にはわかりづらいことがあり、結論や抄録の表現だけが一人歩きしていることが稀ではないことに驚くのである。このようなことを指摘する理由には、疫学のテキストに「疫学的推論は自然科学における因果関係に到達できるか?」という命題が、しばしばとりあげられるからである。その命題の「自然科学」を「生命科学」に置き換えてほしいと願っている。
さらに厄介なことは、そこへマス・メディアが関与してきて、針小棒大な表現で人々を惑わすことが起こっていることもあるということである。このような分野では、「保健情報学」の確立が強く望まれていることであり、実際に、「なにがほんとうか?」ということが、こと「いのち」にかかわることであるだけに、切実である。科学的追及と同等に、この保健情報学が重要な課題となっている。情報提供と報道のあり方とその受けとり方そのものである。
生命科学は、人間だけを対象とする分野ではなく、人間をとりまく環境は勿論のこと、動物や植物および自然環境を包含した生命の追及を研究する分野である。そういう意味では、「保健生態学(health ecology)」と同じような意味を有するものと考えている。 その場合にも、人間を中心にした「人類生態学(human ecology)」とも、その目的はやや異にするものである。
2.フッ素とフッ化物
さて、 主題のフッ化物応用に入っていくことにする。その前に、“フッ素(fluorine)”と“フッ化物(fluoride)”の用語の変遷についての概要を記しておきたい。
フッ素元素の存在は古くから知られていて、古代エジプトでも蛍石(CaF2)を溶かすことから冶金術・錬金術での融剤(flux)として用いられていたという。中世の頃のドイツでは、fluores またはF_sse、あるいはFlusspatとか、そして1797年にNapione,C.A. によってfluorite、1832年にはBeaudant,F.S.によってfluorineと呼ばれている。もともとはラテン語の“fluere(流れる)”に由来して名づけられたので、鉱物から金属を“溶かす”ということで融剤として重宝がられてきたのであろう。
後に、1886年にフランスのパリ大学(ソルボンヌ)薬理学教授であったHenri Moissan(アンリ・モアッサン)は、低温でフッ化カリウムの液体フッ化水素溶液を電解し、フッ素の単離に成功した。Moissan教授は、その功績によって1906年にノ−ベル化学賞「フッ素の研究と分離、およびMoissan電気炉の製作作」を受賞している。またそれにまつわる逸話として、Moissanはダイアモンド合成のための電気炉も製作したが(1892)、失敗に終わっている。しかし融けにくい多くの物質の融解に成功して、高温化学の基礎を築いた功績は高く評価された。
Moissanがフッ素を単離した頃から、フッ素の化学反応性が非常に大きいことが一層明らかにされてきた。中でもフッ素と炭素の反応性が注目されて、フルオロカ−ボンの化学が発展し、多くの有機フッ素化合物が合成されるようになって、「フッ素化学(fluorine chemistry)」は著しく進歩した。フルオロカ−ボンは、炭化水素(ハイドロカ−ボン)の水素の位置をフッ素で置換した化合物で、その誘導体は人間生活にきわめて有用である。その特性の一例として、酸化に対する抵抗性とか、あるいはバクテリアや昆虫類による分解作用を受けないという利点があり、化学的に安定した材料をつくる上での価値が大きいのである。今日では、多くの有機フッ素化合物がつくられて、フッ素含む材料の利用が各方面で進んできている。例えば、樹脂やゴム、表面活性剤、溶媒、潤滑剤、撥水剤、撥油剤、染料、医薬品、人工血液、人工臓器、電気絶縁材料、熱転換剤、噴霧剤、消火剤などと絶え間ない発展が続けられている。
このように、フッ素は古代の無機のフッ化物から、現代の有機のフッ素化合物の時代まで発展してきたのであるが、その無機のフッ素化合物は古くは先に述べた融剤、そして防腐剤、殺虫剤、殺鼠剤、ガラスの腐食とつや出し、メッキ浴などと広く使われてきた。フッ素の特異な利用としては、マンハッタン・プロジェクトにおける原子爆弾製造計画の際に、ウランの濃縮過程で、235Uを258Uから分離濃縮することに利用されていた。それは簡単に気化しやすい化合物としての六フッ化ウランが選ばれたことによる。
一方、自然界におけるフッ化物と人間との係わり合いもかなり古いようである。19世紀以前のことは省略して、19世紀から20世紀初頭にかけて報告された歯の形成異常としての「mottled enamel(斑状エナメル)」または「mottled teeth(斑状歯)」は、飲料水中のフッ素によるものであるが、勿論天然に存在する無機のフッ素(フッ化物)である。
この無機のフッ素化合物と有機のフッ素化合物の用語の妥当性などと、その他の化合物については、長いこと議論されてきた経緯がある。Commision on the Nomencature of Inorganic Chemistry(CNIC)は、1940年代第1回会議を開催し、「無機化学命名法」による用語の検討を行って、1950年代に再考討議されて、1958年に第1版が刊行されている。第2回の改訂は1960年代に行われて、第2版は1971年に刊行され、表紙が赤いために“Red book”と呼称されていたという。そして1990年に国際純正応用化学連合(International Union of Pure and Applied Chemistry、通称(IUPAC)は、“Nomenclature of Inorganic Chemistry, Recommendation 1990”を刊行(第3版)した。
このような経緯で、フッ素化学においても、フッ素の元素名は“fluorine”、そして無機のフッ素に対しては「フッ化物(fluoride)」とした。したがって、従来用いられていた「フッ素イオン」の呼称に対しては、「フッ化物イオン」とすることになった。さらに有機のフッ素化合物に対しては“fluorine compounds)とし、ここに至って、フッ素(fluorine)とフッ化物(fluoride)の使い分けに決着がつけられたことになっている。
しかしながら、きわめて奇妙なことに、わが国では相変わらず日本語論文では「フッ素(fluorine)」、そして同一研究者による英語論文では「フッ化物(fluoride)」の使用が相当にまかり通っている。これはサイエンスの世界ではなく、随筆のレベルの日本的心情の世界のことであろう。
3.フッ化物応用の発展過程の背景
いつ頃から、齲蝕予防を目的としたフッ化物応用が始まったかということは、きわめて興味あることである。
これまでにかなり知れわたった事実は、第一の発見として歯の形成異常としての斑状歯や斑状エナメルに気がついたことと、その後の疫学的な調査によって飲料水由来のフッ化物(フッ素)であることが突き止められて、斑状歯発生予防の歴史が始まったことは明らかである。この斑状歯発生の予防対策は、飲料水中のフッ化物除去法(defluoridation)の対策でもあり、現在でも東南アジア・インドやアフリカの地域的なところで続いている課題である。
そして、第二の発見として、飲料水中のフッ化物による齲蝕予防である。それは飲料水中の天然フッ化物濃度の調整と人為的にフッ化物を添加するwater fluoridation となった。
1930年代には、米国国立保健研究所(NIH)の歯科保健研究所(NIDR)のDean, H.T. によって広範な疫学調査が行われて、米国の斑状歯分布がほぼ明らかにされてきた。Dean は、1930年のKempf,G.A. and McKay, F.S. のmottled enamel の報告を受けて、1933年に“Distribution of mottled enamael in the United States” をPublic Health Report 誌に報告した。
それに関連して実に興味深いことは、Dean の報告の2年前に、わが国の正木 正(東歯大)が、歯科学報誌に日本の斑状歯分布の論文を報告していたことである(Shikwa Gakuho,36(oct),1931)。その英文タイトルは、”Geographical distribution of “Mottled Teeth” in Japan” となっていて、Deanは、1934年の米国歯科医師会雑誌の論文“Classification of mottled enamel diagnosis”(JADA. 21:1421-1426,1934)の引用文献14篇の中のNo.6に、正木の歯科学報の論文を引用しているのである。現在の情報時代なら珍しくもないが、今から約70年前の米国と日本のことである。
その頃から、斑状歯(mottled teeth)、慢性地域性歯のフッ素症(chronic endemic dental fluorosis)の用語が一般的に使われてきたが、現在では“dental fluorosis”または単に“fluorosis”だけで「歯のフッ素症」となっている。Deanの疫学調査は当時としては超人的とも言える精力的な調査であり、しかも歯のフッ素症の鑑別診断に相当に腐心したであろことが推察されるような記載が随所にみられる。Deanから半世紀経ってから、今頃になって、Deanの論文の内容を非難する者がいるが、科学の何たるかを知らず、生命科学が時代によって変わっていく事実について無知であると言ってもよいであろう。
もう一つその頃の業績がある。それはKein, H. によって“dental caries experience(DMF)”の用語とその概念が提唱されたことである(Pub Health Rep. 60:1462-1467, 1945)。Deanらの疫学調査がNIDRで進む中に、第二次大戦が終わる頃の1945年に、Kleinは、歯科医師でありながらエナメルの研究をエ−ル大学の物理化学教室で修えて、Doctor of Scienceを取得し、そしてNIDRの研究員として齲蝕の疫学に従事するようになった。そこで、いま歯科領域で使われているDMFによる疫学研究を進めたのである。
1945年に米国で開始されwater fluoridation(水道水フロリデ−ション)は、その後、WHOの勧告にしたがって世界的な普及がみられるようになってきた。しかしながら、水道水フロリデ−ションに加えて、フッ化物局所応用と呼ばれるフッ化物歯面塗布(フッ素塗布)、フッ化物洗口(フッ素洗口)、フッ化物配合歯磨剤(フッ素入り歯みがき剤)などが広範に導入されていくにつれて、歯のフッ素症の発現が疫学調査で次々と報告されてきている。WHOでは、そのようなフッ化物の過剰摂取の状況を“fluoride exposure(フッ化物暴露)”と表現している。
ところが、ここで見過ごすことのできない疫学的な基本的な疑問が存在している。 まず、「歯のフッ素症(dental fluorosis)」と呼んできた歯のエナメル質表面の石灰化障害の程度について、軽度の白斑を医学専門用語の“-sis”で表現してよいかどうか、ということである。 「“−sis”とは、ギリシャ語の学名で状態とか、または病症の意を表す接尾語」となっているが、現在のdental fluorosis の鑑別診断での軽度の白斑はむしろ「歯の健全さ」を表している状態でもある。従来から主張されているように「公衆衛生的に好ましくない歯の白濁斑」は排除しなければならないが、たとえば、Deanの鑑別診断で「疑問型」とか「非常に軽度(軽微)型)」などを「歯のフッ素症」と呼ぶことは適切ではないであろう。そのためにエナメル質の白濁斑についての多くの鑑別診断法が報告されてきたが、いまもって統一した適切な鑑別診断法は確立していないと言ってもよい。
日本口腔衛生学会では、エナメル斑(enamel opacity)を提唱して、1992年の文部省学術用語集(歯学編)に採録されている。このエナメル斑は、歯のフッ素症として紛らわしい白斑や白濁斑を含めた総称である。したがって、このエナメル斑には歯垢による脱灰性白斑や着色歯・有色歯なども含まれることになる。実際に、dental fluorosis として報告されているこれまでの多くの疫学調査報告の中に、フッ化物摂取に由来しない白斑が相当含まれている疑問はぬぐえない現状である。
WHOでは、1994年のTechnical Report Series No.846 ”Fluoride and Oral Health”で、“Biomarkers of fluoride exposure”として「バイオ・マ−カ−」の用語を提唱している。恐らく今後、さらに疫学研究が進んでくると、現在のdental fluorosis に代わってこのbiomarkerの適用が妥当性をもつようになることであろう。
なぜなら、非常に軽度のエナメル白斑とかmilky white状の白い歯は、歯のエナメル質の健全性を表しているものであって、現在誇張されて言われているように、恐ろしい病状や症状を示すものではあり得ないからである。
4.これからのフッ化物応用の課題
齲蝕予防のためのフッ化物応用について、生命科学の観点からの断片的な考察を試みてきた。それは、従来から医学の中で使われている「科学的」という表現に対する疑問への考察である。科学的であるために、それぞれの研究者が科学的手法を使って結論を提示していることであるが、その目的が“veritus”のためであったとしても、生命現象からかけ離れた結論となっているものが科学の名の下に横行していることに遭遇することがしばしばあるからである。
これからのフッ化物応用で重要なことは、生命現象を凝視した科学的研究に基づいて、フッ化物応用を発展させていくことである。そのために「生命科学におけるフッ化物応用」という命題で考察を試みて、これからの展開点を明らかにしてみることにした。
たとえば、齲蝕(むし歯)というものは、生後に歯が生えたら発生することが通常的にみられ疾患ということではない筈である。本来、きわめて稀に小児に発生するのがむし歯である。 ところが、いまから30〜40年程前までは、わが国では乳歯の「みそっ歯」が珍しいものではなかった。しかしながら、現在では、本来あるべき姿の子どもたちの口の中に近づいてきて、「みそっ歯」はようやく稀にみられるところまできた。小学生以降の永久歯のむし歯予防は、わが国ではまだまだこれからである。小児期では、むし歯は発生しない、発生させないのが自然である。むし歯ゼロ(caries free)は、生命科学の理にかなった目標である。実際に欧米の多くの国で小児のむし歯は限りなくゼロに近づいている。
むし歯(齲蝕)は、成人以降に発生し、そしてもっとも歯の重要性が健康維持に直接的に係わる老年期にこそ、齲蝕予防の本来の目的がある。フッ化物応用はそのためのhost側の抵抗性を高めるための健康法であり、予防手段である。
フッ化物応用の発展過程の背景の中でいくつかの点に触れてきたが、今後のフッ化物応用の課題として考えられることを列挙してみる。
1. 水道水フロリデ−ションは、漸次的ではあるが世界的な普及がさらに増えていくことであろう。ただし、実施地域における水道水の至適フッ化物濃度(optimal fluoride concentration)の設定の根拠を明確にすることが必要である。世界的な規模でみると、実施に適している地域と、実施が容易でない地域がある。水質資源・水道資源の観点からも、保健政策上の適正適用が鍵を握っている。
2. フッ化物は天然の食品からも摂取されるものであるが、歯の形成期における効果、あるいは生涯を
通しての食品からのフッ化物利用を明らかにしていく必要がある。現在までのフッ化物応用研究からの考察では、歯の形成期に対しては水道水フロリデ−ションが最も優れた公衆衛生的な予防手段であるが、生涯を通した歯の健康維持をさらに実証していかなければならない。
3. フッ化物が栄養素であるか、あるいは必須の栄養素であるかについては、研究者の間での長年にわたる研究課題であったが、現在の食物科学・栄養学では、必須性要素の概念は薄れてきている。むしろ、栄養素あるいは食物成分としての摂取許容上限値と基準値の設定が重要となってきている。したがって、フッ化物が必須栄養素であるかないかの追求は適切ではない。他のミネラル成分も同様な方向に研究が展開している。
4. 長年にわたってフッ化物応用に対して警告を発している情報が人々を惑わしていることがあるが、その表現の特徴的なフレ−ズは「フッ素は恐ろしい」と強調していることである。「恐ろしい」というフッ素と日常摂取しているフッ化物とを、どのように認識しているのか、あるいは認知の変換がどのように行われているか、心理学的な研究対象となるものである。たとえば、ビタミンDの生体活用レベルは、一日10 マイクログラム(μg)程度(400IU)であるが、もし100マイクログラムを毎日摂取するとなれば、きわめてtoxicであるとされている。それはフッ化物の栄養所要量としての一日摂取許容の上限値の40分の1のレベルで、危険域であることになる。実際には故意に摂取することでなければ、あり得ないことである。そのことからビタミンDの有用性を否定するであろうか?
5. では、なぜフッ化物の生理学的な日常摂取許容上限量が高いにもかかわらず、フッ化物応用に対して危険であると警告する情報が出てくるかということを吟味する必要がある。その一つが、先にとりあげた歯のフッ素症の発現域の疫学的な鑑別診断に起因していることである。フッ化物応用の今後の大きな課題である。フッ化物のバイオ・マ−カ−としての疫学研究の推進によって、歯のフッ素症としてのcritical level の設定とフッ化物応用による予防としての歯の健全性を明示していくことである。同時にフッ化物に起因しないエナメル斑を疫学研究で明らかにしていかなければならない。
6. 栄養素や飲み物・食物成分に限らず、薬物も含めて生体に入ってくる物質と生体との反応、つまり
量−反応関係は永遠の課題である。フッ化物はまさにこの量−反応関係を軸にしての長い歴史
を持っている。したがって、現在のフッ化物応用をすべて確立された永遠の予防方法と誤った認
識を持ってはならない。人類の環境は時代によって変化しているのである。今回のテ−マである
「生命科学におけるフッ化物応用」の観点から、フッ化物応用の量−反応関係は永遠に追及して
いくべきである。それによって、フッ化物の優れた公衆衛生学的な応用が永遠となる。
たとえば、現在用いられているフッ化物配合歯磨剤のフッ化物濃度は、今後さらに検討していく
必要がある。1000ppmのフッ化物イオン濃度の妥当性と、それ以下の濃度設定の可能性、あるい
はfluoride therapy(フッ化物療法)と呼称しているように、齲蝕感受性の高い者、とくに成人を対象
として、現在欧米で実施されている1000ppm以上の歯磨剤の妥当性など多くの課題がある。
一方、エナメル質の再石灰化(remineralization)のメカニズムが最近の研究で一層明らかにされ
てきているが、従来の高濃度のフッ化物ではなく、1.0ppm前後のきわめて低濃度のフッ化物の作
用機序も注目されてきている。
まとめとして
齲蝕予防としてのフッ化物応用は、生命科学の展開の中で、また大きな転換点を迎えてきたように思われる。それに加えて、国家規模と地域における保健政策におけるフッ化物応用を一層明確に位置づけことが必要である。その一つ一つの課題は、フッ化物応用だけにかかわるものではなく、すべての病気や障害に対する予防またはケアにとっても、その方法の妥当性とあり方が共通の課題である。
今回のテ−マで、保健政策(health policy)に関する考察を省略したが、稿を改めて論じてみたい。分子生物学的な生命科学から台頭してきたこの分野は、医学やその関連領域を包含して生命の倫理を軸にしたサイエンスへと発展してきている。長いこと、医学はこれでよいのだろうか?医療はこれでよいのだろうか?といった疑問を抱いたまま今日までたどり着いたが、いままた新しい生命科学を軸にした科的な研究が進められることに希望がみられる。そのような観点から進められるフッ化物応用は永遠である。
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